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宗徳寺について

「長福山安養寺について」

 

 

長福山耕春院の前身は、田舎館にあった南部方田舎館城主:千徳家の菩提寺の長福山安養寺(天文十一年・一五四二年創建)であり、広大な面積を持った大寺院であったと言われている。

 

天正十三年(一五八五年)、五代城主千徳政武は、田舎館城とともに津軽為信によって滅ぼされたが、その時の安養寺住職は、宗徳寺:玉窓良珍の直系八代目の高僧であった明室禅哲であったといわれ、その後明室禅師は、津軽為信によって堀越に建立された耕春院の初代住職(開山)に招聘されており、山号が同じであることからも、耕春院の前身を安養寺と見ることが妥当といえる。

 

戦死した千徳政武は、まれに見る智仁勇を備えた勇将であったと言われているが、慶長六年(一六〇一年)、為信が清水森(弘前市郊外)で大祭壇を設け敵味方の戦役者の法要を催した時、政武の妻於市(おいち)が現われ焼香し、一巻の文を読み終え自害したと伝えられている。

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安養寺 ―田舎館村発行『田舎館村史』によるー

寺跡は、前川堰と諏訪堂堰にはさまれた氾濫原中の、比高一m前後の微高地にある。為信の攻撃を受けた時の古戦場であった。

この中を一〇二号(バイパス) への新道が建設されることになり、平成二年に発掘調査が行われた。

中世寺院跡の遺構、遺物を期待したが、ほとんどが平安時代のものであった。

弘前市の西茂森にある耕春山宗徳寺の前身は、安養寺であると云われている。

寺伝によれば、耕春院は山号を長福山といい、天文十一年に田舎館村に開かれたとあるが、その時は安養寺といったのだろう。

安養寺最後の住職明室和尚は、耕春院の開山である。また千徳家の菩提寺は安養寺であるが、千徳政武の遺骸は本家の浅瀬石千徳氏が厚く葬ったといわれている。

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