宗徳寺について
「宗徳寺二十八世非相唯一大和尚 棟方唯一」
明治四年九月二十五日、本県鶴田町宮本家に生まれる。十二才の時五所川原市龍泉寺棟方玉應の弟子となり仏門に入る。曹洞宗中学林、同高等学林、大学林(現駒澤大学)と東京に遊学、卒業後宗徳寺(当寺耕春院)住職となり、その一年後大学林学監に任命されている。その後も宗務所長、宗会議員を務めるなど若くして曹洞宗宗門の重責を担ったほか、毎年寒の三十日間青年僧たちを率いて托鉢を行じ、窮民に米品を施与するなど、社会救済事業を率先して行った。
師は、度重なる火災に遭遇するなど疲弊していた耕春院(津軽藩祖為信が実父のため創建した)の復興を図り、明治四十五年、本寺である金沢宗徳寺(全国に九百以上の末流をもつ古刹であるも、同じく荒廃していた)を当地に移転合併し、耕春山宗徳寺として再建、本堂・山門(鐘楼堂)・赤門などを建立した。
(注;通称「赤門」は、現在は赤色だが、当初は黒色だった)
明治三十一年五月三十日、若干二十六歳で犯罪者更生のための仏教慈晃会を創設、明治四十五年官民一体の組織としてこれを青森県仏教慈光会と改称、行く当てのない免囚者(多い時は十数人)を宗徳寺に収容した。同会は、その後青森県保護司会、又更生保護施設あすなろ(青森市)に発展して行った。青森県更生保護事業の嚆矢である。
大正十二年、火災に遭うなど存亡の危機に立たせられていた仙台の曹洞宗第二中学林の林長に就任、苦心の末これを再建、当校は後に東北福祉大学となって発展し、中興の祖として同校中庭に等身大の胸像が建立されている。同校執務の留守中に、兼務する秋田県大曲(大仙市)の大川寺を火事で焼失、ために宗徳寺を高弟黒瀧精一師に譲り再建に専心した。昭和十年大川寺復興を成就、昭和十八年一月二十一日、当大川寺で七十一歳の生涯を閉じた。

宗徳寺二十八世 棟方唯一師
青森県更生保護事業嚆矢顕彰碑
平成24年11月