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「耕春院の歴史」

 

 

耕春院は、山号を長福山といい、安土桃山時代の初期の天正年間(一五七三年~一五九一年)、津軽藩々祖津軽為信により、堀越城主であった為信の実父:武田守信の菩提をともらうために、当時津軽家の居城地であった堀越に建立された。開山は、高僧として名高かった明室禅哲(津軽為信に滅ぼされた田舎館城主千徳家菩提寺の長福山安養寺の住職であった)。

 

慶長十六年(一六一一年)、二代目藩主信枚(のぶひら)は、高岡城(現在の弘前城)を築城し、堀越より移転、追って元和元年(一六一五年)、津軽一円にあった禅宗寺院三十三ヵ寺を現西茂森(いわゆる禅林街)に集め、うち十二ヵ寺を長勝寺通りとは別に、その北側に長勝寺後見役を担った別格寺として耕春院を首座とした通りを構えさせた(耕春院構え)。

 

二代目住職・連室麟奕(りんえき)もまた勅特賜(僧号を朝廷より賜る)の高僧で、二代目津軽信牧の帰依僧であった。津軽為信の次男・信堅(のぶかた。幼名惣五郎。二代信牧は三男)の逝去に際しては、耕春院をして菩提をともらわせしめ、よって信牧は耕春院に東根(ひがしね。岩木山を中心とする津軽の東側)の曹洞宗の支配を命じ、百石の寺禄を与えた(記録では為信代より百石に近い寺禄を既に受けていた)ほか、現在地移転の際は、特に境内地、墓地のほか、山林畑地を含む広大な土地を与えた。

 

当時耕春院は、三仏事、両祖忌、道元忌、臘月七昼夜の坐禅等、行事綿密に、一般の人々と相共にこれを行うなど大いに栄えたが、元禄十三年(この時、蔵経七千巻、雑書二千余巻焼失とあり)、文政元年、更に明治五年、明治九年と、度重なる火事に見舞われ、又寺禄廃止や士族の没落(耕春院檀家は、津軽一族を初めとする士族に限られており、そのため檀家数も少なかった)などで、本堂再建も適わず、唯一商人として檀家となった津軽屈指の豪商・金木屋呉服店(現在の弘前大学病院の場所)が一時支えとなったが、当店の閉店などもあっては荒廃が進んでいた。

 

明治四十五年、耕春院三十二世棟方唯一は、耕春院の本寺であり、やはり荒廃の進んでいた加賀の古刹宗徳寺の再建も同時に図るべく、その教線流播する因縁深い津軽の当地に移転させ、直末寺耕春院と合併し、耕春山宗徳寺とした。