© 2016  Sotokuji

「宗徳寺開山 玉窓良珍禅師足跡」

 

 

玉窓良珍は相模(神奈川県)の人であり、道号(法号の上につける字名)は玉叟ともされ、又法諱(ほうきと読む。法号・いみな。得度の際に師匠より受ける僧としての名。)は良珎ともされる。幼くして出家し、受具(具足戒を受ける意で、出家得度のこと。)の後に善知識(指導能力のある優れた禅僧)を遍参したが、証契(悟りをうる)するところがなかったという。後に丹波の永沢寺の普済善救禅師に謁して心要(心の肝要の意で、法門の至極・心性上の精要)を受けたとされるが、『普済久和尚法語』「能州諸嶽山總持寺普済救和尚入院仏事」の両班(役名)に、侍状(役名)良珍の名が存するから、すでに総持寺にて通玄寂霊禅師に参じていることが分かる。「普済禅師語録」巻上の『住丹州青原山永沢禅寺語録』と『住加賀州太原山聖興禅寺語録』および巻中の「小参」は、小師(弟子)の良珍らの編となっている。『洞上聯灯録』巻四の「加州宗徳寺玉窓良珍禅師」の章によれば、普済善救禅師との間で商量(問答し、審議する)があった(略)。その後、再び諸方に善知識を訪ねて参究したが、再び聖興寺(加賀。廃寺)にて禅救禅師に執侍すること二年であったと記されてる。  

そして、唐代末の徳山宣鑑の托鉢の話頭(古則・公案)により大事を究めた(大悟し、師匠にそれが認められた)とされる。「行記」では第五位であり、善救禅師の入院次第では「良珍首座」として第四位に置かれている。大本山総持寺輪住六十六世に出世して兵庫県丹波永沢寺(初祖通玄寂霊禅師)輪番十五世に遷り、永享四年(一四三二)に龍泉寺(開山同じく通玄禅師)輪住三十八世に住している。さらに加賀の信官が石川県金沢に龍谷寺(龍国寺とも)を開創して良珍を開山に迎えており、寺は後に宗徳寺と改められた。その法嗣として、新潟県(当時刈羽群)柏崎の飯湧山香積寺開山の龍伝慧金(?~一四六四)、玄中梵義、三重県(当時伊勢安濃郡)津の塔世山四天王寺開山の正海慧孝(?~一四六六)の三人が知られ、門流大いに繁栄し、一派を成すにいたった。

<尚、玉窓良珍示寂については、『禅学大辞典』には明応七年(一四九八)八月とあり、諸般辻褄が合わず史家等を悩ませたこともあるが、正しくは宝徳三年(一四五一)三月二十三日であり、十六世北宥道林住職記帳開始の過去帳(宗徳寺所蔵)にもそのように記されている。『洞上聯灯録』の記載が間違いの発端であろう〉。

良珍の師普済善救禅師は、通玄寂霊禅師に随侍し、のち衣鉢を継ぐ(後継者となる)。総持寺輪住住職に出世、又丹波永沢寺輪番住職となる。応永十二年請せられて越前(現福井市)に禅林寺を開き、大いに化を挙げた。応永十五年一月十二日示寂。世寿六十二歳。『普済善救語録』三巻がある。