top of page

宗徳寺について

「棟方唯一と更生保護」

 

    一九九九年『更生保護史の人びと』 

           鹿内國三 「棟方唯一」より

 

 棟方唯一(一八七一年―一九四三年)は青森県における更生保護事業の先覚者である。明治三十一年五月三〇日同師が若干二六歳で創設した仏教慈晃会は、東北では福島県出獄人保護会社(現至道会)に次いで二番目の免囚保護会であり、青森慈晃会として今に伝えられている。

×    ×    × 

 唯一は明治四年九月二五日、青森県北津軽郡鶴田村(現在鶴田町)で農業を営む宮本源吉の六人兄弟の次男として生まれたが、貧農で兄弟が多いため唯一は出家を余議なくされ、明治一六年北津軽郡五所川原街(現在五所川原市)龍泉寺住職棟方玉応の弟子となり仏道に入った。唯一は英邁慧敏で玉応師の信頼が厚く、東都に遊び、曹洞宗中学林、高等学林を経て大学林(現在の駒沢大学)に入る。

 この間明治二六年二月二日玉応師の養子となり翌二七年七月一三日に玉応師が歿した後は、義兄棟方無底師に従って学び、大学林卒業後は弘前市宗徳寺住職となる。当時宗徳寺は耕春院と称し明治五、六年頃全焼し、荒廃したままになっていた。そのため堂舎の再建を発願し、自ら仏教青年会を率いて托鉢に出るなどして奮闘し、明治四四年から大正二年にわたる工事の末、現伽藍を完成させるとともに、大正元年本寺である加賀の宗徳寺(開山玉窓良珍禅師)を移し耕春山宗徳寺を再建した。

 その後、第八師団の布教師及び教誨師をしていた唯一師は、自分を頼ってくる釈放者を何としても更生させたいという止むに止まれぬ気持に駆られていた。折しも明治三〇年一月、英照皇太后崩御大葬に当たり、減刑令が発布され多数の放免者をみるにいたり、全国各地において保護会設立の気運が一段と盛り上がった。唯一師は、青森県においても免囚保護事業の必要性を痛感し、弘前市内各宗寺院(浄土宗を除く)とはかり、免囚保護会仏教慈晃会の創設に漕ぎつけ、自ら初代会長に就任した。明治三一年五月三〇日のことである。

 その後、明治四〇年から免囚保護事業奨励金の国庫支出、明治四三年四月一八日の岡部司法大臣の府県知事に対する出獄人保護に関する訓示や、明治天皇崩御による恩赦を間近に控えるなどを背景に、唯一師の主唱による仏教慈晃会は、県下一般各寺院の共同事業として、大正元年八月一〇日青森県仏教慈晃会と改称し、知事を総裁に、地方裁判所長及び検事正を副総裁とし、唯一師は会長としてその任にあたった。

 一方、唯一師の布教師としての活躍は、本山総持寺の石川素童師の認めるところとなり、大正二年六月、本山の直末寺、秋田県仙北郡大曲町大川寺住職を命ぜられ、併せて宗徳寺を兼務することになった。このため青森県仏教慈晃会会長としての職務遂行ができないとして同年九月会長を辞任し、その後任に弘前市日蓮宗法立寺住職八戸随静師が会長となった。唯一師が仏教慈晃会の創立当時を思い出し、同会機関紙、慈晃第二十五号(昭和七年七月一五日発行)に寄せている次の文面から、当時の苦労の様子を垣間見ることが出来るだろう。

    ×    ×    ×

   拝啓……(前文略)……

 回顧すれば、慈晃会創立当時、小生は弘前宗徳寺に免囚者と起居を共にせる時代を想ふて感慨無量に御座候。

 免囚者中の病人や行先定らざる者に職を与へ、市内行商等をなさしめ続々と収容し、多き時は十五、六名常在し、喧嘩する者、逃走する者、肺患にて動けぬ者、一商店を開きて其の主任にしたる者が各取引先を欺きて夜逃げをしたる等の為め其の当時千五百円許の損害を被り候。物質損害は兎も角、彼等の精神感化には相当痛心したる者に御座候。逃げたるものを探索の為め自から変相して市内各木賃ホテルを夜間歴訪したる等、今に想ふて慄然たるもの有之候。

 創立当時は、各宗一致せず小生一人挺身之に当りて随分苦しみたる者に御座候。

 其の当時の知事閣下は今回逝去せられたる武田千代三郎殿にて有之候。

 検事正は今井時太郎殿にて、両者の御諒解を得たるは今に 感銘致居候。

 其当時の典獄は有名なる黒木鯤太郎殿にて熱心なる基督教徒にて有之候為め、裁判所の二階にて創立会開催の時、仏教の二字を冠せるため大いに議論し、仏教側は小生一人、他は皆官界の有力者にて有之候ひしが小生は一歩も譲らず今井検事正の助勢を得て、遂に仏教慈晃会の題号を勝ち得たるものに御座候。

 今は仏教の二字は取り去られたる由なるも会の健全なる発達を見るに至りしは、親は亡くても子は育つ、生みの親より育ての親御凡誠の結果ならんと慶賀に堪へず候。

 由来坊主等の仕事は我見のみ多く、一致を見ること稀なるも仏教徒の創立せる慈晃会は慈晃の二字を存する丈にても愉快に不堪候。

 現下は大に蹶起して邦家の為め尽すべき 時に付き、吾徒は真に粉骨砕身して事に当らざるべからずと存候。

……(後文略)……

    ×    ×    ×

 棟方唯一師の更生保護事業に関する記録は戦災に遭い殆ど焼失したため文献により承知する術なく、ために関係者から業績の一端なりとも聞き出そうと、唯一師のご子息棟方宏源(唯一師の弟与作氏の子で四歳時養子となり現在秋田県大曲市大川寺住職)、徒弟黒瀧精一(弘前市宗徳寺住職)及び熊谷為三(元弘前市照源寺住職)の三氏を訪ねたが、ここにも記録として残されたものがなく、諸氏から承ったことを断片的に述べるしかないことを残念に思う。

    ×    ×    ×

 唯一氏は峻厳実直、己にきびしく又弟子達にも非常にきびしかった。

 “至誠 ”“断固 ”が口癖で一旦引受けたことはどんなことがあってもやり抜くという人であった。

 教誨師を嘱託されていた師は、釈放者の更生は国家安泰につながるものとの強い信念を持っていたため、刑務所から釈放された者が相談にのって欲しいと訪ねることが多く、常に十名内外の者を自坊に泊め更生のため心を砕いた。

 朝の読経には全員を参列させ、悪いことをするなと言うより、「少しでも善いことをせよ」と言い聞かせた。

 その頃の様子は師の手紙の中にも記され、当時の苦労の一端を偲ばせているが、市内を托鉢したり、寄金箱を設けて資金を集めたり、自分の食事を切りつめるなど刻苦隠忍の生活を続けながら指導保護に努めた。

 一方、当時の今井県知事に釈放者の保護は官民一体でやるべきものと働きかけ、前述したとおり青森県仏教慈晃会の創立をみたことからも、一旦引受けたことは断固としてやり抜く師の性格が窺われる。

 釈放者の中には師の親身も及ばぬ世話に感激し、更生した姿をみせるため師のもとを訪ねる者も数多かった。或る時は、秋田刑務所の釈放者が師の恩に感じて自作の丹精込めた藤椅子を寄贈する例もあった。唯一師はそれを好んで使ったという。「これがその椅子です。今なおこうして大事に使わせてもらっています」と宏源氏が話してくれた。

 宏源氏もまた、義父唯一師と同様、更生保護の仕事に携わり、現在秋田至仁会の理事をつとめておられるということである。

    ×    ×    ×

 唯一師は大正二年六月、秋田県大曲町曹洞宗大川寺住職に迎えられたが、なお引続き宗徳寺の監理に当り(昭和九年黒瀧精一氏にゆずる)、その一方で社会救済事業に貢献した。その後曹洞宗大学林副学監に任ぜられ、やがて学監に昇任し、退任後大正一一年から宗務会議員として活躍した。

 大正一二年四月、今までの業績手腕が買われ、火災のため校舎の殆どを焼失した仙台市曹洞宗立第二中学林(昭和初期、栴檀中学校と改称、現在の東北福祉大学)の復興のため林長に選任された。しかし復興の事業は大正末年から昭和初頭にかけての経済界の不況から難航し苦境に立たされ、何度も私財を投じ校舎の再建及び寄宿舎建設を敢行し昭和六年退任したが、昭和一二年に同窓会は師を中興の功労者として感謝をこめ、その寿像を刻み校庭の一隅に安置して永く後世に伝えている。

 また林長時代に大川寺が全焼したため堂舎を再建、五年計画で資金を集め昭和一〇年三月に現伽藍を完成している。

 

 棟方唯一師は一代にして

 ・仏教慈晃会の創立(青森市)

 ・宗徳寺再建(弘前市)

 ・大川寺再建(秋田県大曲市)

 ・龍泉寺再建(五所川原市)

 ・栴檀中学校校舎再建(仙台市)

等の偉業をなし遂げ、昭和一八年一月二一日大川寺において多彩な生涯を閉じた。行年七一歳であった。

 唯一師の主唱で創立された仏教慈晃会は師の言われる如く、育ての親によってはぐくまれ、次の経緯を経て現在に至っている。

・大正四年一二月三日

  青森刑務所長大野数枝の主唱により事務所を青森刑務所内に移し刑務所長が会長となる。爾来知事を総裁に裁判所長及び検事正を副総裁に推戴す。

・大正一五年五月五日

  青森市内篤志家大坂金助より、青森市大字造道字浪打に敷地四八八坪、建家百坪の寄附を受け、ここに保護会館の新築成り県下保護会の面目を一新せり。

・昭和二年七月一六日

  財団法人組織の認可を受け、青森慈晃会と改称、県下各市町村ごとに支部を設立。

・昭和一四年一一月一〇日

  司法保護事業法及び同法施行規則により支部を解消し青森慈晃会を新設。

・昭和二〇年七月二八日

  戦災に依り収容所並びに備品類全部を焼失す。

・昭和二一年六月~同二二年七月

  演芸巡廻興行を行い資金獲得、漸やく収容所の建築完成を期す。

・昭和二二年八月

  竣工。

・昭和二五年一一月二四日

  更生緊急保護法施行により財団法人青森県連合保護会廃止、その残余財産は青森慈晃会に無償譲渡され 更生保護会の認可を受け、直接保護会として発足。

・昭和二九年四月九日

  財団法人の設立許可を得、財団法人青森慈晃会として青森刑務所長代表会長に就任。

・昭和三三年五月一三日

  従来の青森刑務所長を会長とする慣例を廃し、純然たる民間

  人の経営に切り替え、室津哲三氏が会長となり事務所を施設内に移転す。

・昭和三四年四月九日

  施設の腐朽甚しきため新築を決意し、本会の土地一、一二四

  坪八九と学校法人山田学園所有の土地一、三八二坪及び現金四百万円と交換。

・昭和三四年六月三〇日

  平家建モルタル仕上げ八〇坪五が更生保護会設備基準の示すところに従って竣工(収容定数二〇名)。

・昭和四四年六月三〇日

  室津哲三会長死亡のため後任会長として楠美知行氏就任、現在に至る。

    ×    ×    ×

(註) 唯一師の年譜について

 五所川原町誌によれば明治三十五年四月弘前市耕春院住職となり、大正元年宗徳寺内に仏教慈晃会(免囚事業)を創設したとあるが、司法省保護局編纂司法保護団名鑑には、明治三十一年五月三〇日当時弘前市曹洞宗宗徳寺住職棟方唯一の主唱により仏教慈晃会を創立したとあるので、本稿は司法保護団名鑑に基づいて執筆した。

宗徳寺二十八世 棟方唯一師

青森県更生保護事業嚆矢顕彰碑

​平成24年11月

bottom of page